5.考える屍 努力や成功について語る時「努力するのも才能がいる」という議論が、しばしば見られる。 そして「そんな事と言うのは甘え」かどうかで賛否が分かれるところまでが、お決まりで基本的に結論は出ないのある。 「努力するのも才能がいる」 この言葉を巡って、大きく意見が分かれるのは、思うに「継続」と「成果」という、2つの見解が可能だからだ。 ひとつは、努力をするのは大変だから、それを「継続」するとなったら、一種の才能が必要という見解。 そして、もうひとつが、王貞治も「もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは呼べない」というように、 第三者から努力が努力と認められるには、一定の「成果」が必要であり、 努力に見合う結果を出したり、自分にあった正しい努力を選択するのに「才能」が必要という見解が可能だからだ。 この2つの見解に対して、思考中毒になった人間は、200%の割合で後者を支持する。 なぜなら、思考中毒者はひとつの夢や目標に対し「10万」回の努力を試行(思考)できるからである。 この「10万」という数字は、決してハッタリではなく。 高校時分の私も、重度の喫煙者がタバコを一本吸うように、ネタを考えたり、大喜利をしたりなど。 一人の時間さえあれば、そういった芸人になる為の精神的な努力を、少なくとも一日100回は余裕でしていたからだ。 それを3年間一日も休まず続けたのだから、10万回の努力というのは、むしろ控えめでさえあるのだ。 そんな「継続」と「積み重ね」の鬼であった当時の私が周囲から受けていた評価が、こちらである。 「まず、何か行動を起こしてみろよ」「何もしてないじゃん」 「悩んでるだけ」「遊んでるだけ」「楽しくなさそう」 何故こんなことになったかというと、答えは簡単。 「努力が報われない」という現実が、何千何万と続いたからだ。 努力が報われない原因は、 当人の適正や才能の有無であったり、才能があっても不確定な要素によって発揮できない。重要な部分が、そもそも努力によって伸ばすことが不可能。 など、様々であるが、ここでひとつの疑問が残る。 仮に、10万回の努力が一切報われないということがこの世にあるとして 「何故、同じ失敗を何千何万繰り返しているのに、10万を超える前に軌道修正したり、諦めたりしないのか?」 という疑問である。 (誤解のないようにいうと、私も努力で伸びる漫才のツッコミの間の取り方などはすごくうまいし、 ギミック理論もその中で作ったもので、どうでもいい部分では報われている) では、同じ失敗を10万回繰り返して思考中毒者になってしまう人の精神状態や意思決定が、 どのようなもので最終的にどんな地獄が待っているか説明しよう。 大前提として、人が努力するのは、大きな夢や目標があり、そこに足りないものを感じるからだ。 だが、前にも書いたように様々な理由によって、努力が一切報われないという事態は起こりうるのである。 そういった現実に直面した時。初めて幾つかの選択肢が出現するのだが、ここで志が高く。真面目で夢に生きる人間がとる行動はおおよそ決まっている。 現実の成功者や物語の主人公がそうであったように「理不尽な現実に負けず、努力を続ける」のである。 それで多少なりとも「成果」が得られれば何の問題もないのだが、本当に「成果」がない場合は大きな危機に直面する。 (ここでいう「成果」がないとは、死ぬほど努力したのに「誰々に勝てなかった」程度のものではなく。 死にそうな思いで努力したのに「むしろ努力する前より劣っている」といった、常識に合わないレベルのものをいう) そして、万単位で努力の圧倒的失敗が続くと、再び大きな選択を迫られることになる。 簡単にいうと @「諦めて別のことをする」かA「努力の仕方を大きく変更する」かである。 だがここで、思考中毒になるような人間は、そのどちらも選択することができない。 というのも、思考中毒になる人間には一定の傾向があり、真面目で、志が高く、内向的な人間。 そして、地球が夢を持つのは素晴らしい半球そうでない半球に別れたら、絶対に素晴らしい半球に行き。 世の「努力信仰」に対して非常に肯定的であるという点が挙げられる。 そのため、@の選択肢は、余程のことでもない限り、そうそう選ばれることはないのである。 では、Aの「努力の仕方を大きく変更する」という選択肢はどうかというと、こちらは少し事情が異なる。 というのも、Aの選択肢の場合。 選択して、その引き出しを開けたとしても、空っぽだったり、鍵がかかっていたりするからだ。 よく「努力しても報われないのは、努力の方法が間違っているからだ」といったことを、ドヤ顔で語る人間がいるのだが、 私は、この手の輩を見る度、殺してやろうかという衝動に駆られる。 なぜなら、思考中毒者という人生の圧倒的敗北者であっても、同じ失敗にぶち当たれば、失敗から原因を探ろうと試行錯誤し、 成功者が「若い頃、こんなことして成功した〜」という話を聞けば、片っ端から試したり、方法の模索など当たり前に行うからだ。 だけども、もっと根本的な部分に問題があれば、そんな小手先の努力は焼け石に水で、何の「成果」にもつながらない。 なので、万単位の失敗から「努力の仕方が間違っている」ことは薄々分かるのだが、 「どうすればいいのか?」はさっぱり分からないという状況が誕生するのである。 こういった「どうすればいいか分からない」状態になると、人は諦めることも、前に進むこともできなくなる。 そうした生殺し状態の中で存在感を増すのが、時間と周囲の評価である。 万単位の失敗をして、マイナスの「成果」しか得られなかった場合。 必ず、年単位の膨大な時間の浪費と(思い込みを含めた)周囲からの蔑みを受けている。 それが非行や違法行為による結果であれば納得もいくが、やってきたのは世間で推奨されまくっている「努力」である。 すると、理不尽な現実に対する「怒り」と、結果を出し、失われた時間取り戻して周囲を見返したいという「焦り」が、いやでも沸きあがる。 「どうすればいいのか?」はさっぱり分からないという状況。でも、一刻も早く「この絶望をなんとかしたいという」強烈な「焦り」に駆られた精神状態。 この2つが重なった時。いよいよ、第Bの選択肢が現れる。 それがB努力信仰への依存である。 「どうすればいいのか分からない」でも「なんとかしたい」という板ばさみどころか、過去や自分の信じてきたものに裏切られた四面楚歌の状態。 そんな時。 「大きく羽ばたくためには、一度屈まなければならない。でも多くの人は、屈むのを恐れて諦めてしまう」 このような言葉は、一体どのように感じられるだろう? 何千何万と同じ失敗を繰り返し、何の「成果」もない現実は「羽ばたくために屈んでいるだけ」だと肯定され、 「どうすればいいのか?」という疑問には「上手くいくかは分からないけど、あきらめずに努力するしかない」という回答が与えられるのである。 しかし、何千何万と同じ失敗を繰り返すのは、何か根本的な問題があるからであって、それが「何か」分からない。 という、夢を叶える上で都合の悪い現実は、何ひとつ解決されていない。 なので、当然。 「絶望的な状況だけど、それでもやるしかないんだ!」という漫画の主人公のような努力をしても、今まで通り何百何千と同じ失敗を繰り返すのである。 (恐ろしいことに何万回も努力をしたにもかかわらず。努力が報われるどころか、努力する前より能力が劣っていることすらある) 何故このように理不尽な現象が起こるのかというと『精神的な努力』と『肉体的な努力』の違いによるところが大きい。 夢や目標を達成する上で、最も良いのは、「才能や適正」があり、上手くいかなかった場合。「根本的な問題を見極め」「自分に必要な正しい努力をする」ことである。 が、この2つの要素を意識的に満たすのは、ほぼ不可能に近い。 「才能」や「適正」は言うに及ばず。 「自分に必要な正しい努力」が「小臼歯を中心に正しく噛み合わせ、側頭部の頭蓋骨に力をこめる」ような常識から外れすぎたりした場合。 成功の鍵を握る要素は、ほぼ運によって決まるとすらいえるのである。 だが、逆に言えば、この2つを満たすような人間(仮に天才とする)というのは、かなり限られることになる。 そのため、つらい努力を「積み重ね」「継続」することこそ重要であり、結果を大きく左右する。ということになるのだが、 これは、反復によって強化できる肉体的な努力に限ったである。 肉体的な努力というのは、試験勉強や筋力トレーニング等。 つらかったりする代わりに、「量」さえこなせば、たとえ間違った方法でも、ある程度なら「量」に比例して報われる傾向が強く。 精神的な努力は、ネタを作ったり、大喜利をしたり等。 行為自体にキツさがない代わり。努力が間違っていた場合、どんなに「量」をこなしても、その「積み重ね」が意味を成さないという、違いが存在する。 例えるなら、漫画家志望の青年が 「十年間、毎日欠かさず絵の練習をしてきました」といえば、「ある程度の画力」があり「確実に一般人よりも絵が上手い」と思えるのに対し、 「十年間、ずっと構想を暖めてきた作品があります」といった場合。絶対ではないにせよ「なんか駄目そう」な感じがするのと同じである。 これは「構想○○年」的な作品に駄作が多いこともあるが、それ以上に。 肉体的な努力における「量」はある程度信用できるのに比べ、精神的な努力の成果が決して「量」と比例しないことの証左といえよう。 ここまで書いてきた 「努力が間違っていることは分かっても、何が正しい努力かは分からない」 「努力信仰と現実が一切かみ合わない」 「精神的な努力は、量と比例しない」 これら一つ一つは、努力にありがちな落とし穴だが、3人集まれば文殊の知恵というように、穴も3つ重なれば、人生に奈落へと続く風穴を空けてしまいかねない。 それこそが精神的な努力への依存(思考中毒)でなのである。 では、思考中毒に陥るまでプロセスを簡単に紹介しよう。 @壁や将来への不安にぶつかる ・叶えたい夢や目標がある。 ↓ ・その中で、不安や現実の壁にぶつかる。 ↓ ・あきらめたくないので、必死に努力する。 ↓ ・努力してるのに上手くいかない。 ここまでは、どんな夢にも共通する部分であるが、上手くいかない根本的な原因が「努力の量」で一切の挽回ができないものの場合。 一歩、思考中毒へ近づくことになる。 A視認できない精神的な努力では、意味の無い間違った努力を選択する確率が高く。正しい努力の発見も難しい ・根本的な原因が「積み重ね」で解決できないタイプの為、いくら努力しても呪われたように成果を得られない。 ↓ ・何かが「おかしい」ことは分かっても「どうすればいい」かは分からない。 ↓ ・ このままでは諦めるしかないので「どうすれば上手くいくか」必死に考える。 ↓ ・「成果を得るには、もっと努力する必要がある」という結論が最も妥当で、再び高いモチベーションで努力を続ける。 イチローの名言に「小さいことを積み重ねるのが、とんでもない所へ行くただ一つの方法だと思っています」という言葉がある。 また、エジソンの名言には「私は失敗などしていない。ただ一万通りのダメな方法を見つけただけだ」とある。 信じてもらえるか分からないが、この二つの言葉は真逆の意味合いを持っている。 というのも、目標に向かって努力する作業というのは、目標に対して用意した「仮定」を「現実」にすり合わせ、その誤差を修正していく作業である。 しかし、イチローとエジソンでは、途中までは同じような行程を踏むが、その着地が真逆なのだ。 「仮定」と「現実」をすり合わせていった結果。イチローは「その中で正しいと思えるもの」を「積み重ねていく」のに対し、 エジソンは「その中で間違っているもの」を「削ぎ落としていく」ということを繰り返していくのである。 要するに、目標を達成するためのアプローチには「積み重ねる」と「削ぎ落とす」の2種類あり、それはパッと見で良く似ているということだ。 そして、この2つの努力の仕方は取り違えは、とても起きやすい。 とりわけ「積み重ねる」大切さについて、我々は幼少期からいやというほど教え込まれている。 そのため、本来「間違っているもの」として「削ぎ落とされる」はずのものを漠然と「積み上げて」しまうケースが、精神的な努力では起こりやすく。 一種の「洗脳」により取り違えると、以下のような結果をもたらす。 B努力信仰以外に頼れるものがない上に、可能性が完全に否定できない。 ・高いモチベーションで論理的に正しい努力をしているのに、同じ失敗が繰り返される。 ↓ ・あまりに理不尽な現実に、努力の仕方や努力信仰に疑問を抱く。 ↓ ・「でも、次が壁を壊す1万回目の努力で、急にコツを掴んで才能が……」という可能性を否定できない。 ↓ ・大きく努力の仕方を変えたり、努力を中断して根本的な問題を徹底的に分析をする、といった舵取りができず。似たような努力が継続される。 ↓ ・高いモチベーションで……以下ループ。 これが、第三者から見て、マイナスの成果しか生んでいない間違った努力を、何万と繰り返してしまう原因であるが、 このような祈りにも似た精神的な努力を繰り返した先に待っているのは、『奇跡』……ではなく。『ジャンキーになった自分』である。 C精神的な努力をしていないと「焦り」や「罪悪感」に襲われる ・成果の無いまま膨大な時間が経過し、精神的、立場的に追い込まれ、常に強いストレスにさらされる。 ↓ ・現状を打破しようと「この悔しさをバネに!」と奮起するが、根本的な問題が解消されていないため、失敗し続ける。 ↓ ・努力が失敗する一方で、努力していると「次が壁を壊す1万回目の努力かも」という希望によって、強いストレスから開放される。 ↓ ・しかし、努力に根本的な問題があるため、何の成果も上がらず。再び、激しい「焦燥感」に襲われる。 ↓ ・望んだ成果を何も得られていないが、何が『正しい努力』かは見当がつかない。 ↓ ・だからといって「何もしなければ、可能性は0だ」というように、努力をしないでいると、自分が堕落したような「罪悪感」にさいなまれる。 ただでさえ必死に努力を繰り返し、それが報われない。という悲惨な目にあっているにもかかわらず。 待っているのは、間違った努力を強要するような「禁断症状」 いうなれば、宝くじだと思って買っていたのが麻薬だったようなものである。 しかし「取り違え」の被害者だからといって、神は一切容赦しない。 D夢に向かって努力しているつもりでも、禁断症状の緩和をするだけの奴隷になる ・怠惰の念から来る「罪悪感」を「努力の原動力」だとして、再び精神的な努力を再開する。 ↓ ・精神的な努力すると「焦り」や「罪悪感」が、ぼんやりした「希望」に変わる。 ↓ ・上手くいきそうな感じはするが、何も上手くいかない。 ↓ ・非情すぎる現実がのしかかり、精神的立場的に追い込まれる。 ↓ ・だからといって「何もしなければ、可能性は0だ」というように、努力をしないでいると、自分が堕落したような「罪悪感」にさいなまれる。 ↓ ・再び精神的な努力をするが、当然のように上手くいかない。一方で「焦燥感」や「罪悪感」だけは解消される。 ↓ ・そのうちに精神的な努力をするのが、夢を実現するためなのか。「焦燥感」や「罪悪感」から逃れるためなのか。分からなくなってくる。 ↓ ・努力が報われない根本的な原因を探ろうとも、簡単には分からない上。努力を中断すると「喪失感」で気が狂いそうになる。 ↓ ・仕方なく。論理的に筋が通っているだけの間違った努力で奇跡を起こそうとするが、また上手くいかない。 ↓ ・あまりに強烈なストレスに、上手くいかないけど唯一「ストレス」から逃げられる精神的な努力に対する『渇望』が無意識下に生まれる。 ↓ ・全く成果のない努力を延々繰り返す依存者が誕生する。 これが私に説明可能な思考中毒に陥るメカニズムである。 夢が叶わなかった時。その後悔や喪失感から「呪い」に例えられるが、 何かしらの原因によって、その過程で努力が一切報われない状況に嵌ってしまうと、その「呪い」は神のペットでも殺したかのように凶悪になる。 なぜなら、精神的な努力は他の依存症に比べ何千倍も辞めるのが難しいからである。 後々、書いていくが思考中毒から完全に脱するには、どうしても「思考を止める」必要があり、その難易度は当然、酒やクスリの比ではない。 その結果。 少しでも夢に対して諦め切れない気持ちがあると、夢に向かって何かしら努力をしていないだけで、取り返しのつかないような「罪悪感」に胸を締め付けられ。 僅かな可能性を信じて努力しても、できるのはインチキ同然の自分に合わない間違った努力しかなく。当然のように何の成果も得られない。 そして、そんな無意味な行為を繰り返す度、精神は少しずつ擦り切れていき、完全に壊れるか、ボロボロのまま生きていくしかないのだ。 人生に喜びも目的も見出せない状態を「生きる屍」などと表現するが、思考中毒者だった頃。 私は自分を「考える屍」としか思えなかった。 何千何万と裏切られ続け、はっきり間違っていると分かる努力に、自分の心が半分支配され。 その糞努力をすると何の成果もないくせに、心だけは一時の「平穏」を感じてしまう。 自我や自由意志すら侵され、努力信仰様にこびへつらい。刹那の可能性を頂戴する。 まさに、思考の奴隷。夢を追うことすら許されない「考える屍」である。 そして、ここまでの最悪の状況になったら、逃れるためには 「白旗を揚げて完全降伏し、理不尽な現実様の靴の裏を舐めて生きるか」 「思考を止めるという馬鹿げたハードルをクリアするか」 「命をもって終止符を打つ」 しか無いのである。 どれくらい居るのかは分からないが、私と同じように努力のハズレを引かされ、理不尽に苦しみ生きる人や、死んでしまった人は必ずいるだろう。 それは、ひとえに思考を止めるという、さらに理不尽なハードルが存在するからである。 そこで、思考の止め方を解説する前に 一体、何故、思考中毒を治すために思考を止める必要があるのか? それがどれほど難しいかを説明させてほしい。6.禁煙と禁考へ続く(思考の止め方次の次で解説します) |
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