3.努力に依存するメカニズム(目に見えない編)


  笑い(ボケの方)を追求する時、大きく二つの考えに分けることができる。

  ひとつは、松本人志や彼の尊敬する島田紳助の考える『つっこみは努力で伸びるが、ボケはセンス・才能が全てで努力は一切関係ない』というもの。
  もうひとつは、私が一度も笑ったことのないトミーズ雅が「ガチンコ漫才道」で言っていた『24時間笑いのことだけ考えなアカン』という考えである。

  要は『笑いにおいて努力は有効か無効か?』という話で、本来であれば、どちらが正しいのかなど考えるまでもないのだが。
  大天才が裸の王様になっていく現実を目の当たりにした当時の私は、あろうことかトミーズ雅考えを採用しつつ『第3の考え』をひねり出してしまう。

  それは「頼りないが才能はあるのだから、足りないところを努力によってカバーすればいい」というもの。
  いわゆる「才能があって努力した奴が最強」という理論である。

  そこで、私は高校3年間の間に
  『トップアスリートのような筋骨隆々な隙のない才能に仕上げ、M−1の最終決戦級の鉄板ネタを数本作り上げる』ことを目標に
  24時間365日の不断の努力を開始した。

  まず、自転車で登校する時は、例えボケの訓練として一人でマジカルバナナを延々と行う。(全くお勧めしない)
  これは、何かに例えたりする笑いというのは、ギリギリの関係性が重要という理屈によるもので、

  例えば Q.「今、どんな気持ちですか?」 A.「すごく楽しみです」と答えるような状況があったとしよう。

  そこで連想ゲーム(マジカルバナナ)の要領で「楽しみ」といったら「誕生日」「誕生日といったら西田ひかる」という
  ギリギリの関連性のあるワードを引き出してみる。

  すると Q.「今、どんな気持ちですか?」 A.「そうですね。誕生日前日の…西田ひかるみたいな気分ですね」という
  とてもつっこみやすく、ボケてまっせ感のない良質なボケができるのである。

  一事が万事この調子で、24時間こういった空手の型のような訓練を積み重ねることで、
  私はマス大山のような達人になっているはずであった。

  しかし、現実はどうだったかというと、大げさではなく。日、一日と進むごとに「自分がつまらなくなる」のをヒシヒシ感じていた。

  中学時代に、少なくとも2〜3割はできていた「発想の笑い」が、0割1部だとかそのレベルにまで落ち込み。
  フリや大喜利のお題を受けても「何一つ頭の中にイメージが浮かばず」「理屈をこねくり回すことしかできない」
  まさしく無能という他ない有様で、友達ひとり笑わせることも困難であった。

  こうなった原因は、『ボケはセンス・才能が全てで努力は一切関係ない』という理論が正しく。トミーズ雅がトミーズ雅だった。
  要は、笑いのボケと努力(思考)に有用な因果関係が存在しないということに他ならない。

  しかし、私も馬鹿ではないので、半年もすれば思考でボケの質をカバーすることが不可能なことに感ずいていた。
  そこで私は、現実的で妥当な解決策をとることにする。

  それは「とりあえず中学のときにあった才能を取り戻す」というもので、努力自体は継続するがその方向性だけ変える。
  いわゆる「成果が上がらないのは努力の仕方が間違っているからで、正しい努力をすべき」というものである


  だが、この「正しい努力」こそが、精神的努力(思考)に依存するメカニズムの第1の要因なのだ。

  というのも、筋トレや受験勉強のような肉体的努力と精神的努力における、最大の違いは『目に見えない』ところにある。
  腕の筋肉を鍛えようとして鍛えられるのは、腕が目に見えるからで、受験勉強をして合格率が上がるのは、試験範囲が分かるからである。
  「面白くなる」などの抽象的な事柄への精神的努力というのは、当日になって急にロシア語の問題が出されるような試験の勉強をするのと同義であり、
  それ故に『つっこみは努力で伸びるが、ボケはセンス・才能が全てで努力は一切関係ない』のである。

  10年以上経った今だから分かるのだが、当時の私の「才能が消え去った」最大の原因は、『歯の噛み合わせ』にあった。

  冗談に思われるかもしれないが、歯のかみ合わせというのは、通常『奥歯と奥歯がきっちりかみ合う』のが正しいとお思いかもしれない。
  しかし、これには個人差があり、例えば私の場合は「奥歯と奥歯」ではなく。
  その手前の『小臼歯がきっちりかみ合い』『奥歯が半分浮いた状態』が正しい噛み合わせなのである。(あくまで私の場合)

  これは「そうだから」としか言いようがないのだが、奥歯ではなく小臼歯でかみ合わせることで「人は普段脳の○○%しか使っていない」レベルで
  頭の働きが違ってくるのである。(あくまで私の場合)

  私は中学時分に、12歳からしていた歯の矯正器具を外したのだが、外すタイミングが早く。直した歯並びが悪化するということあった。

  思い返すに「発想の笑いのようなことができるようになった」時期と「矯正によって本格的に歯並びが改善された」時期。
  そして「歯並びが悪化し、噛み合わせがずれていった」時期と「笑いの才能が消えていった」時期は、見事に重なっているのである。

  つまり「とりあえず中学のときにあった才能を取り戻す」という目標を持った、当時の私が行うべきだった「正しい努力」とは……

  パターン1・親に土下座して、歯の再矯正をさせてもらう。
  パターン2・歯を奥歯ではなく小臼歯で噛み合わせて生活する。

  この2パターンしか無いのである。そうすれば、芸人として大成したかは兎も角。青春の全てを肥溜めに捨てることは無かっただろう。

  だが、考えてみてほしい「努力が報われないのは、正しい努力をしていなからだ」とよく言われるが、
  歯を小臼歯で噛み合わせるなどという努力に思い当たる可能性は限りなく低い。

  これが『成果の全く上がらない努力に依存する』第一歩。「目に見えない正しい努力」であり、私も正しい努力の見つけ方は未だに見当がつかない。

  それでも「笑いの才能が消えていった」時期が完全に一致する。という、確かな手がかりは存在するのだから(常識的でないケースとはいえ)
  自分の才能が消え、全く面白くないといった、目を背けたくなる事実をひとつひとつ検証していけば、気づけないこともなかったのだ。

  実際、当時も私は『噛み合わせ』とはいかずとも『歯並び』が悪くなったのが原因ではないかと、何度となく疑ったことがあった。
  あとは、そこから一歩二歩踏み込んで、ダメもとで再矯正に踏み切るか。
  本かネットで『下の前歯が1/3隠れる程度が正しい噛み合わせ』という一文を見つけさえすれば良かったのだ。(私は奥歯噛みだと8〜9割隠れる)

  だが、現実はそうならなかった。
  私は疑いはするも、せいぜい悪化してせり出した歯を指で押し込んで、変化が無いと見るやすぐに辞めるだけだったからだ。


  もとより、「噛み合わせが原因で才能が完全消失」というナンセンスで、ハードルの高すぎる「答え」ではあったが、
  やはり、当時の私が気づくことは無理だったと思う……。

  というのも当時の私は、すでに精神的努力への依存(思考中毒)の第2ステージ信仰の奴隷に突入してしまっていたからである。


  努力に依存するメカニズム(努力信仰編)へ続く。予定



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