4.努力に依存するメカニズム(信仰編)


  思考中毒者の『努力に対するひたむきさ』と『報われない哀れさ』は、完全に常軌を逸している。

  思考によって笑いの発想力を補うことができないと悟り「最低限あったはずの才能を取り戻す」ことを目標にした私は、次のような努力を開始した。

  ます、登校時にしていた一人マジカルバナナをやめる。
  その変わりに大喜利のお題やフリに対して、インドから帰国した糞学生のように、あえて何も考えないようにして感覚へと身を委ねた。
  そうすることで、思考によって押し込められていた才能が回復し、ひとまず最低限の才能が戻ると信じていたからだ。

  そういった方針の元。高校生の私は、連日連夜、一日も休むことなく努力を続けた。
  授業となれば、勉強はそこそこに大喜利やネタ作りを行い。部活には、バラエティのロケのような気持ちで望み。
  家に帰れば、面白かった番組やネタをメモを片手にビデオで分析しつつ、深夜2時過ぎまでネタ作り、発想力の強化に勤める。

  このように血のにじむような努力を続けて、手に入れたものといえば、
  大喜利を2時間以上しても、まあまあの答えひとつ出せないゴミ発想力に、ネタを書けば3行目で完全に行き詰まる、絶望的状態。
  常に鼻の奥に栓でもされたような息苦しさを感じ、水の中にでもいるようにぼんやりする脳。
  と悲惨なものであったが、同時に当然の結果でもあった。


  なぜなら、私の才能が消え去ったのは『歯並びの悪化による噛み合わせの変化』に起因するものだからだ。


  では何故、それに気づくことができなかったのかのだろうか?

  以前述べたように『噛み合わせ』とはいかずとも『歯並び』が原因なのではと疑うことは、何度となくあったが決して答えには辿り着かなかった。
  その理由はいくつか存在する。

  まず、歯の再矯正パターンでは金銭的な問題があるし、常識的な面でいっても、自分より遥かに歯並びが悪いのに売れてる芸人がいくらでも存在するという問題もあった。
  だが、最も大きな問題は、精神的努力に依存する第2段階である「信仰による依存」が始まっていた事にある。

  「高ければ高い壁のほうが昇った時気持ちいいもんな」というミスチルの歌詞をご存知だろうか?
  他にも「飛び上がる時には、一度屈まなければならない」という慣用句。努力に関するこの手の言葉は無限に近く存在する。

  当時の私は『才能が消え去った』ことを、何か「試練」のように捉える節があり、
  「この苦しみを乗り越えて才能を取り戻したら、以前より強く頼もしい才能が手に入るはず」
  「だから、これは素晴らしい未来へのタメの時期なんだ」
  などと考えながら努力を続けていた。

  だが『小臼歯での噛み合わせ』が正解である以上、そのような努力は一切報われることはなかった。

  そして、努力が報われなくなると起こるのが、周囲からの軽蔑と劣等の意識である。
  論理や一般的感覚から見て、まっとうなでひたむきな努力したのに報われず。その上(思い込みも含め)周囲から無能はおろか怠け者扱いされるというのは神罰に等しい。
  そんな発狂しそうな状態になった時。夢と覚悟を持った前向きな人間はどうするだろうか?

  答えは簡単である。
  「100回叩けば壊れる壁があるとする。でも、みんな何回叩けば壊れるか分からないから90回であきらめてしまう」(松岡修造)
  「もし報われない努力があるとすれば、それはまだ努力とは呼べない」(王貞治)
  「あきらめたら、そこで試合終了だよ」(スラムダンク)
  と言われるように、更なる努力を限界まで継続するのである。

  だが、ここで考えてみてほしい。
  「まだ、努力が足りてないだけ」「諦めないことが大事」と自分へ言い聞かせる真面目な努力家にとって、
  歯の再矯正をしたり、歯並びの悪化が原因なのを疑い徹底的に調べる。といった行為は、どのように映るだろう?

  周囲を「見返してやる」という焦りに近い精神状態においては、再矯正しても結果が出るのに1年はかかる上に、月1、2回は通院する必要があるので、時間がもったいないと感じ。
  「諦めない」信仰の価値観においては、今している努力を中断する(諦める)ような感覚に襲われるのである。

  すると、歯が原因ではないかと疑っても「再矯正はお金がかかるし、見当が外れた場合は努力する時間が大きく失われる」
  「そもそも、歯のおかげで成功したという人を知らない」「歯並びが悪くても売れてる芸人はゴロゴロいる」という常識的な考えが優先され、
  10分ぐらい指で歯を押して矯正の真似事をしてみたり、検索して一番上のサイトを、ささっと読むだけで済ませてしまうのである。

  そして、これまで自分が物語や逸話などから得てきた情報から、最も確率が高いと思われる『十万回叩けば壊れるかもしれない壁を叩く努力』に全精力を注ぐのである。

  「努力をしても報われるとは限らないが、努力しなければ可能性はゼロだ」というが、私の場合。皮肉なことに、微かにあった可能性の光を努力することでかき消してしまったのである。

    
  △一万回掘れば〜でも9999回で諦めてしまうのイメージ           △一万回掘るせいで隣に気づけないのイメージ(自作)


  だが、努力にすがって裏切られた人間に訪れる真の悲劇は、むしろここから始まる。

  というのも、世間一般で推奨される努力のプロセスや信仰と、現実に訪れた問題に大きなズレがあったり、
  性格や資質が悪い意味で合致した場合(主に、理想が高く、真面目で、内向的といった要素)

  世界で最も入手が容易で、世界で最も辞めるのが難しいバットドラックに依存する可能性があるからである。


  それこそが、思考中毒(精神的努力依存)であり、これは余裕で自殺の原因になり得るのだ。


  5.考える屍へ続く。

Pfbセクサロイドメニュー

面白さの数値化メニュー

スリーサイズ変換機


思考の止め方メニュー


TOP
へ戻る