2.努力に依存するメカニズム(恐怖編) 1999年が、ノストラダムスの予言を信じるものにとって、「運命の年」であったように、 お笑いを愛するものにとって2002年は、まさに「審判の年」であった。 何故かというと、天才芸人・松本人志のベスセラー『遺書』に、このような予言が存在したからである。 コメディアンは、スポーツ選手とかと一緒やと思うから、絶対どっかで引退せんと。 ほんまは動けてないねんけど、動けるふりしてる人いっぱいいるじゃないですか。動けてるというのは、発想という意味ですけど。 ぼくがどんどん年とって、どんどんおっさんになっていくと、ぼくの名前ももっと上がっていくと思うんです。 でもそのころには、ぼくのレベルは絶対に下がっていますよね。 (中略) ぼくのピークといわれれば、わからないですけどね。まあいって四十じゃないですか。 「遺書」のあとがたりより抜粋 笑いの天才松本人志の才能が、齢四十を境に枯渇して、普通のおっさんに成り果ててしまうというのである。 そして、その真偽が判明する年が、だいたい2002年というわけなのだ。 芸人を志す中学生であった当時の私にとって、この予言は恐ろしくもあったが、同時にあまり信じてはいなかった。 というのも、松本人志を語るとき「坊主にしてから面白くなくなった」という意見をよく耳にするが、 これは間違いで、坊主にした直後数年こそ。 キャリアの中でも特に脂の乗った時期であり、2001年の彼は圧倒的に面白かったからだ。 これは、打率3割後半かつ本塁打50本オーバーの選手が、翌年。 2割5分、本塁打10本程度の成績しか残せないと思わないのと同じで、衰えには予兆というものが必ずある筈だからだ。 だが結果からいうと、それと同じことが2002年。実際に起こる。 今までなら、周りなどお構いなしに突拍子もないボケで爆笑を起こしていた場面で、やたらと不平不満を言ったり、 「笑いとは発想が全て」と語っていたのが、日常に潜むささやかな『おかしさ』に謎のこだわりを見せだし (例:寄り切りが得意なわんぱく横綱の名前が長内君だった的なもの) ジャンクスポーツで浜田がみせる、アスリートのエピソードを『笑って無理やり落としてあげる』という行為が、 ガキの使いのトークで乱用される。 それでいて、才能が枯渇したという自覚が本人にまるでない。 本題と逸れるので、ダイジェストでお送りしたが四十を過ぎた松本人志は、本当に面白くなくなっていった。 そして、その事実こそ。私が『努力に依存する』きっかけになったのである。 全盛期の松本人志いわく。笑いには「発想によるレベルの高い」笑いというものが存在するのだが、 中学生だった私は、それがたまにできたりする程度の才能があった。 この「たまに/できたりする」というのがミソで、将来「発想の笑い」を、もっとバンバンできるようになって TVに出てるサンピン芸人に成り代わることこそが、私の夢であり、正義あって、必ずできると信じていた。 しかし、発想による笑いを「息をするように/できる」神様のような人間が、四十というリアルな年齢で 突然面白くなくなり、醜態を晒し始めたのだ。 自分の「たまに/できたりする」程度の才能が、たいして伸びもせず。もっと若い年齢で枯渇してしまう。 というのは、大いにあり得る話であり、明確に否定する材料はどこにもなかった。 「才能の枯渇が、芸人としてブレイクし、ここぞという時期に突然くるかもしれない」「いや、十日後そうなるかもしれない」 そう考えるのは、お笑いに人生を命を懸けようとしていた私にとって、あまりに恐ろしいものだった。 3・努力に依存するメカニズム(目に見えない編)へ続く |
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